【洗剤を使わない洗濯!?】株式会社wash-plus代表取締役 高梨健太郎さん#3
地域住民に愛されるコインランドリーを作る
『洗剤を使わないコインランドリーを作る』
2013年に創業したコインランドリーwash+は宿泊施設にも導入されている。
知られざる創業ストーリーはまさにジェットコースター。
人にも環境にも優しい洗濯手法の仕掛け人、高梨健太郎さんにインタビューをした。
この記事は#3です
まだお読みでない方はぜひ株式会社wash-plus高梨健太郎さん#1からご覧ください。
正義を貫く少年高梨
中瀬:高梨さんのキャリアについてお伺いします。高梨さんはどのようなキャリアを歩まれているのでしょうか。
高梨:私は高校卒業後、大道具を専門とする大工を1年経験し、商工会議所に勤めました。
約10年勤めた商工会議所を退職して、父の仕事であった不動産の会社で社員として働き始めました。その間に知人と手打ちうどんのお店を開きましたね笑。
その後コインランドリー事業を創業しました。
中瀬:うどん屋さんなどかなり興味深い話が聞けそうです笑。学生時代はどのように過ごしていましたか。
高梨:高校は野球で進学しました。
ただ、私を引き抜いてくれた監督が1年生の時にいなくなってしまい、試合に出られない日々が続いていました。
当時は監督が絶対で、試合に出られないメンバーは練習ができないような指導のされ方をしていました。私はそれが許せなくて監督と衝突してしまいました。
中瀬:不当な扱いを受けたことに対する怒りということでしょうか。
高梨:それもありますが、1番は試合に出られない選手とスタメンの選手で練習の機会が平等に与えられていないことに疑問を持っていました。
平等に機会を与えないと、試合に出られない選手は試合に出られないままじゃないですか。
中瀬:確かにそうですね。下の者を引き上げるという点で、経営にも活かされる考え方かもしれませんね。
高梨:今振り返ると、私は上司や監督など上の立場の方にはかなり歯向かっていたのかもしれませんね笑。
中瀬:それはなぜなのでしょうか笑。
高梨:育った環境は影響していると思います。
今でも覚えているのは、幼少の頃に母親が実施していた地域のイベントみたいなのがあったのですが、その中に知的障害を持っている女の子がいました。
そういう社会的に見ると弱者と思われてしまうような人が身近にいたので、自分より弱い人、後輩だったり不当な扱いを受けている人は助けて当然と思っていました。
だから、監督や上司の下にいる人間のためにも自分が反発していかなければならないという思いがあったのかもしれません。
中瀬:正義感溢れる性格だったのですね。
高梨さんは監督に「遠征に来るな」と言われるほど揉め事を起こしていたようです。
大工で学んだ社会の厳しさ
中瀬:高校卒業後は大工になったとのことですが、なぜ大工だったのでしょうか。
高梨:正直、野球しかやったことがなく、やりたいことが何なのかも分からなくてどこでもいいと思っていました笑。
ただ、私を子供から大人に成長させてくれた素晴らしい経験だったと思います。
中瀬:どのようなことを学びましたか。
高梨:たくさんありますが、仕事をする上での段取りの重要さはかなり印象に残っています。
中瀬:段取りですか。
高梨:はい、私がやっていた大工というのが企業の展示会などの大道具を担当しているものでした。
展示会の設営は、作る時は1日以内、撤収する時は2時間以内という時間的な制約がある中で現場を取り仕切ったり、作業を行わなければいけない仕事でした。
そのため、計画がきちんとできていないと作業が終わらないということが起きます。そういった点で段取りの重要さを学びました。
当時の上司の方には今でも敵わないと思いますし、当時の社長だった方には経営で悩んだ時は相談しに行ったりしています。
野球一筋だった高梨さんはたくさんのことを吸収したんだね
尖り切った商工会議所勤務時代
中瀬:その後商工会議所に入社していますが、これは何があったのでしょうか。
高梨:はい、大工をやっていたのですが、単純に労働時間が長すぎて体を壊しそうだったので転職を考えました。
たまたま簿記の資格を持っていたので、浦安の商工会議所に応募してみました。
しかし、当時の私は19歳で、若すぎるという理由で不採用の予定だったようです。
たまたまその場にいた市川商工会議所の課長がそんな私を見て、市川商工会議所に入社させてくれました。
中瀬:それは運命的な出会いですね。
高梨:その課長さんは私の上司になるのですが、10年間商工会議所に勤めた中で一番お世話になったといっても過言ではありません。彼がいなければ今の私はないと思っています。
中瀬:高校卒業後はやりたいことも分からずキャリアをスタートしましたが、商工会議所のキャリアを経て何かご自身で考えは変わりましたか。
高梨:その仕事で何をしたいのか、何のための仕事なのか、を考えるようになりました。要は物事の本質を捉えて仕事をしたいと思うようになりました。
中瀬:どういった経緯でそのように思ったのでしょうか。
高梨:商工会議所や市役所と関わると、昔からの慣習に囚われてしまい、今の方法ではダメだと思うことが多々ありました。
それらを改善していく中でそう思うようになったのだと思います。
中瀬:何か具体的なエピソードはあるのでしょうか。
高梨:初めは中小企業の方に帳票や決算書の書き方を教えていました。しかし、私の周りの職員は、帳票の代筆をしていました
なぜ書き方を教える仕事をしているかというと、会社の方に帳票を書いてもらって経営の分析に活かしてもらうためにやっているんです。
それを代筆してしまっては元々の目的からずれてしまっている。だから私はそんな状況を変えるために一切代筆はしませんでした。
お客様が書き方を覚えるのには時間がかかったので上司からの反発は大きかったです。しかし、3年後には皆さんが決算書を書いて見せに来るようになりました。
高梨:私たちの仕事は決算書などのチェックだけになりました。
私が退職した後、当時私が書き方を教えた企業の方から「高梨さんはどうしていますか」と商工会議所に連絡が来るようで、今でも間違ったことはしてなかったんだと思います。
中瀬:その仕事の進め方は確かにコストがかかりますし、反発する上司の気持ちも分かります。それをやり切った高梨さんのエネルギーを褒めるべきかもしれません。
高梨:一番覚えているのは我々と市役所の方針が合わず、私1人で市役所の市長室に殴り込みに行ったことですね笑。
中瀬:いやいや、やっぱりエネルギーがすごすぎます笑。
退職金でうどん屋さん開業!東日本大震災による経営難
中瀬:激動の商工会議所時代を終えて、不動産業を営んでいたご家族の会社に入社されたと聞いています。
高梨:はい、そうです。でも退職直後は、商工会議所の退職金を使って知人と一緒に手打ちうどん屋さんも開いていました。
中瀬:そうだったんですね。なんだか楽しそうですね笑。
高梨:今の自分だったらもっとうどん屋さんを上手くできたんじゃないかと思いますね笑。
中瀬:後でビジネスアイデアを教えてください笑。
高梨さんはその後不動産の会社で代表取締役に就任し、東日本大震災を経験しています。当時の会社への影響はどうだったのでしょうか。
高梨:凄まじい影響を受けました。まず、浦安市の人口が3000人減少しました。
これがどのように影響するかというと、賃貸収入が入ってこないようになりました。
中瀬:大打撃ですね。
高梨:さらに、所有している土地に関しても売れないという状況が続きました。
中瀬:そうだったのですね。
高梨:確定測量と言って、地震によって土地が動いてしまったので測量をし直さないといけないという話になりました。確定測量ができないと土地を割って売ることができないんです。
例えば50坪の土地があったとして、25坪欲しい人がいたとします。50坪のうち25坪を売るということができなくなりました。
この確定測量が終わるまで3年から4年かかると言われました。それまでの間は先ほど例だと50坪欲しい人にしか売れないと言うわけです。
液状化が発生したこともあり、完全に土地の売買市場が冷え切っていました。
中瀬:相当経営が苦しかったのではないでしょうか。
高梨:当時は社員に給料を払うためにカードローンを使ったことを覚えています。
東日本大震災で大打撃を負った高梨さん、そこから大逆転のコインランドリー事業が立ち上がります。
次回予告。不屈の精神で立ち上がる、洗剤を使わないコインランドリー誕生!
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