【勇気と感動】誰もが夢を諦めない世界を
並外れた行動力で、前に
今回インタビューさせていただくのはキリンビバレッジの高橋 知世さん
嚥下障害を持つ方に食事の楽しみを届け、その家族の負担も軽減する「ペースト食ビジネス」に取組まれています
聞いている人に勇気を与えるような、並外れた行動力を持つ高橋さんの人生に各駅停車しました!
▼目次
Interviewee
高橋 知世
Takahashi Tomoyo
キリンビバレッジ株式会社に新卒入社。法人営業に携わる。
18トリソミーという先天性の疾患をもった長女を出産。長女を育てる中で感じた課題感をもとに、胃ろうの子ども向けのペースト食を開発する新規事業を起案中。
CHANGE by ONE JAPAN 2022にてグランプリを受賞、『始動 Next Innovator 2022』にてシリコンバレー派遣メンバーに選出。
可憐に舞い、広告局長を務めた学生時代
中瀬:本日はよろしくお願いします。
まずは簡単に学生時代のお話を聞かせてください。
高橋:私は静岡出身で、中高一貫校の女子校に通っていました。新体操部でリーダーやってましたね。
中瀬:体育会系だったんですね。勉強もそこそこされながら・・・
高橋:いや、全然してなかったです。
中瀬:え、全然してなかったんですか笑。
高橋:部活やって疲れて、なんとか授業の予習をやって、寝るみたいな。
中瀬:予習してるなら勉強してる方なんじゃないですか。高橋さんの学校の中ではしてないかもしれないけど、普通の公立出身の僕からするとやってますよ。
大学では何を学ばれていたんですか?
高橋:社会学を専攻していました。
大学4年間は楽しめる場所がいいなあ、と思って京都の大学にしました。
中瀬:大学ではサークルとか入ってましたか?
高橋:色々見て回った結果、新聞部に入りました。
中瀬:新聞部、なんだか珍しいですね。決めたきっかけはあったんですか?
高橋:大学の公認の部活でありながら、関西の11大学の報道サークルに加盟していて、活動の幅が広くて色んな人と出会えそうだと思って。
新聞部に入ろう!と明確に決めたというより、興味があって見にいったら先輩から「この子は新しく入ったんやで」みたいに紹介されて。
あ、私入ったんだ。みたいな感じでした笑
中瀬:なるほど、半ば強引に笑。
高橋さんは部活で何を担当されてたんですか?
高橋:編集長と広告局長をしていました。学生新聞の広告枠が一つ50万くらいするんですよね。オリエンタルランドの広告を作ったこともあります。
Kakueki!の広告枠よりも高いね。
中瀬:学生紙っていうのは学生が読むんですよね?
高橋:そうです、学内新聞です。大学やそこに所属する学生の記事がメインになります。
京都の大学で『京都特集』を組んだり、関西のイベントや、事件・事故とか、スポーツ取材もしました。その新聞の中に広告枠があって企業に協力いただいていました。
中瀬:かなり本格的に運営されているんですね。そのまま新聞社に就職しようとはならなかったんですか。
高橋:新聞社に興味はありましたが…記者の仕事ってめちゃくちゃ忙しいんですよ。OBで新聞記者、報道記者は結構いたので、その大変さを聞いていました。
就職活動は、どこかの業種にしぼっていたわけではなく、楽しそうだと思えた企業を受けていました。キリンだと、私が紅茶が好きで、身近な商品を売っているということもありました。
中瀬:広く見たうえで納得したところに決めたのですね。僕自身、ファーストキャリアの会社は激務で有名で、面白そうだと思い決めました。業界というよりは会社に惹かれましたね。
これぞキャリアウーマン!全国を飛び回る
中瀬:就職されて最初は何をされていたんですか?
高橋:最初は名古屋に配属されました。
関東で研修を受けて、名古屋に行ってからは先輩の営業同行して、そのあとは法人営業をしてました。
企業の総務部に従業員の福利厚生の一環として飲料自販機を提案したり、オフィスビルや商業施設に設置させていただいたり、そういう営業になります。自販機を設置していただければ、その中にはキリンの商品が展開できるので、そこで売上を作ることになります。
中瀬:そういう商材の営業もあるんですね。勉強になります。
高橋:自動販売機ってどこにでもあるじゃないですか。他社のが置かれていたらそれをキリンに換えていただくとか。
中瀬:なるほど。名古屋にはどれくらいいたんですか?
高橋:二年くらいですね。
そのあと北陸に転勤しました。初めて若手女子が配属されるということでだいぶ心配されたんですが、結構楽しかったです。
中瀬:そうなんですね。
高橋:北陸はみんな優しいんですよ。「雪も降るし、大丈夫?」みたいな。
事務所にグループ会社のメンバーもいて、仲良くしてもらってましたね。白山登ったり、金沢城のリレーマラソンに出たりとか。
中瀬:楽しそうですね。初めての若手女性社員配属だったんですか。
高橋:同世代もいなかったです。一番年が近い人が40歳くらいでした。
それなりに大変だったけど、気づいたら毎日のように先輩たちと飲みに行くようになっていました。私お酒飲めないんですけどね笑
中瀬:意外とすぐ溶け込めちゃうんですね。
高橋:いや、でも先輩たちも慣れてなくて、最初はすごくぎこちなかったですよ笑
新入社員ではないのに、得意先には「新人」と紹介されていましたね。
営業先でもいろんな方々と仲良くさせてもらったりして、人脈もできて、楽しくやってました。
中瀬:優秀な営業マンですね。
高橋:そのあと大阪に配属されました。
厳しくて優秀な人たちの集まりだったので大変でした。目標も高くて。
その時は部署で社長賞を獲って、その賞金でみんなで有馬温泉に行きました。
結婚、そして妊娠
中瀬:大阪に来てからご結婚されて、お子さんが生まれて、そして今の活動につながっていくという時系列ですよね。
高橋:はい。産休前に引継ぎの仕事をしていた時にものすごくお腹が痛いことがあって、病院に行ったら「切迫している」と言われてそのまま入院になりました。その時に先生から「赤ちゃん小さいかな」って言われて。
「そんな気にしなくていいと思うけど、念のためもっと詳しく診てみる?」と言われ、専門の先生を紹介してくれました。
中瀬:ふむふむ
高橋:私は、「小さいならどうしたら大きくなるのか聞いてみよう」という軽い気持ちで受診したのですが、紹介してもらった先生は胎児診断で世界的にも権威ある方だったようです。
診てもらったらすぐに「18トリソミーですね」「心臓に穴が開いています」と。そのあと夫婦で説明を受けた際に、ドクターから「生きて生まれるかも分かりません、例え生きて生まれたとしても出産時に亡くなることもあるし、そのあと1歳を迎えられる可能性は10%程度です」と言われました。
中瀬:おなかの中にいても、心臓に穴が開いているとか、この病気だろうとか分かるんですね。
高橋:分かるみたいです。
「エコーで胎児の心臓の流れを見ると穴が空いてしまってるね」「18トリソミーの子に特徴的な手の交差も見られます」と言われました。
中瀬:病気が見つかって、そのまま会社も長期で休まれたんですか。
高橋:そうですね。おなかの子の病気が見つかったのはまだ産休が始まる前で、入院中は有給を取得していたのですが、職場のリーダーが「無理しなくていいから」と気遣ってくださり、早めの産休に入りました。
当時は先のことは全く考えられなくて、とにかく必死でした。「生きて生まれる可能性は半々です、わかりません」と言われていたので。
中瀬:そうですよね。急に「生きて生まれる可能性は半分です」と言われたら、とにかく生みたいという気持ちしかないですよね。
高橋:はい。ただもし無事に出産を乗り越えたとしても、その後の治療についても考える必要がありました。
中瀬:生まれた後にすぐ心臓の手術や治療が必要だから、それができる病院に通えないと生きていけないということですね。そういった病院は日本だと限られるんですか?
高橋:そうですね。里帰り出産を予定していたのですが、そうすると夫が子どもと生きているうちに会えない可能性が高いので、ドクターに相談しながら関西圏で産科の体制が整っていてNICUがある病院を選びなおしました。紹介状を書いてもらって実際に行ったんですが、結局、そこのドクターから「うちではなくて他の病院に行ったほうがいい」と言われてしまって。
さらに転院しました。
中瀬:大変ですね。理由は何だったんですか。
高橋:その病院では「18トリソミーは診たことがあるが、事例が少ないのと、心臓手術は提携している病院にお願いすることになるが、以前の事例ではその病院からハイリスクだと断られてしまった」ということで転院を勧められました。18トリソミーという基礎疾患があると、ハイリスクと判断されて心臓手術をしてくれる病院はほとんどないようです。
出産前からこれほどの困難があったんだね…
高橋:さらに転院してからは、産科と新生児科のドクター、ナースなど約10人で専門チームをつくってもらい、出産時とその後の対応など、事前に話し合いを重ねました。出産時に心停止していたら心臓マッサージをしますか、仮にこの合併症があったとしたらその手術はどうしますか、など細かいところまで話し合いました。ただ、なにがいい選択なのかわからないし、すぐに決めることはできなかったです。
なんとか無事に生まれてくれたけど、すぐに呼吸が安定しなくなって、最初の1週間はいつ何があってもおかしくないという緊張が続きました。病院側の提案で、NICUの機械室を空けてくれて、そこに産科の私のベッドを入れて、子どもと過ごさせてくれました。
夫も泊まらせてくれました。それだけ危険な状況だったんです。でもなんとか乗り越えてくれました。
中瀬:その後はどのような経過を辿られたんですか。
高橋:原因がわからず呼吸が不安定になったり、体内の酸素の値が下がったりして危ないこともありましたが、安定してきたタイミングで家に帰れるという選択肢が見えてきました。退院までは1年2か月かかりましたね。
ただ、その時は兵庫県に住んでいて、こどもは大阪の病院に入院していました。在宅生活になって何かあったときに、県をまたいで救急搬送ができないことが分かったので、大阪に引っ越してきました。
育児休業中だったので、会社に書類を出すために市役所の保育課に相談したんです。
そうしたら「預かれない子ですよね?介護休暇取ってください。」と、子どもの保育については相談に乗ってもらえませんでした。
お子さんが障害をもって生まれてしまったら、もうお仕事を辞めて子育てに専念しようと考える人も多そうだけど…高橋さんがそうしなかった訳はあるのかな。
あとで聞いてみよう。
高橋:子どもの預け先はないし、預ける先があっても不安だし・・・かといって育休を取らせてもらっている以上、職場復帰することは考えていました。
1歳半ころから療育園に母子通園をはじめ、結局介護休暇をとることになりました。病院のソーシャルワーカーにも相談して、保育先を探しましたが、市内にはなく。近隣の都市は全てあたって、全部だめでしたね。
中瀬:そこまで探されても厳しいものなんですね。
高橋:ただそんな中、次の子を妊娠しました。そこで介護休暇から産休・育休につなげることができました。
結果、第一子の産休から第二子の育休まで、5年間くらい連続で会社は休んでいました。
中瀬:ふむふむ。
高橋:下の子の育休が明ける直前に、なんとか子供を預けられる環境を整えることができました。子供を日中見てくれる児童発達支援施設が隣の市に開所することになり、復職できるようになりました。
中瀬:そうだったのですね。5年間休職できたのはやはり会社はかなり手厚いですね。制度的にできた、という点はあると思うんですが。
高橋:そうですね。在宅ワークを取り入れることができないか、ずっと会社に相談していたのですが、制度はあるものの、私が勤務している大阪では在宅させられる仕事はないと言われてしまって。
復職してからも「子供を預けて働ける環境は整えたけど、続けることができるのだろうか」という不安があったんですが、そこでちょうどコロナ禍に入ったんですね。
そうしたら強制的に社員全員が在宅ワークになって。復職した頃にたまたま在宅ワークできるようになりました。
中瀬:すごいタイミングですね笑
復職してからはどういったお仕事をされていたんですか?
高橋:復帰後半年は総務部で働いていました。
契約書の管理システム導入をしたものの、整備がされていなくて困っていて、私は契約書を読むことはできたのでそこを任されました。
ある程度完成が近づいたところで、また法人営業部に異動しました。
中瀬:そうなんですね。法人営業部に戻ってからは産休前と同じ仕事を担当されたのですか。
高橋:コロナ禍だったので訪問営業が出来なかったんですよね。それでインサイドセールスを立ち上げようという話が経営層で上がり、そこにアサインされました。
家でもできるし、オンライン商談も出来るのですごくよかったです。
中瀬:そうなんですね。自動販売機のセールスですか?
高橋:いや、それだけではないですね。
基本的に未取引企業に営業しようとなって。ちょうど、『健康経営』というワードが世間で聞かれるようになってきたころだったので、ターゲット先を絞って健康経営のサポートを軸に提案をしています。
復帰後、高橋さんの人生がCHANGEする
ここから高橋さんは新規事業開発で活躍されるのですが、その前に高橋さんの開発している事業をご紹介!
事業案:医療的ケア児と家族のための子供むけペースト食『for fam』
世の中には、飲み込む力が弱く、口から通常の食事を取れない子どもたちがいる。
そのような子は食事をペースト状にして食べたり、口から食べることが難しい場合は、胃ろうをつくってそこから食べている。通常の食事をペースト状に二次調理するので親の手間がかかる。
家族の想いは「家族と同じものを食べさせてあげたい、でも日々のケアに忙しくて余裕がない」。
外食時には、お店にペーストメニューがあるところはほとんどなく、食べさせることができない。
親の負担を軽減し、こどもにわくわくする食体験を届けられるものを作りたいと考えている。
これまでヒアリングのほか、600人以上の当事者にアンケートも実施し、よりニーズに合ったものを届けたいと検討している。
中瀬:CHANGE by ONE JAPANに参加されたのもこの頃ですか?
CHANGE by ONE JAPANとは、大企業で働く人向けの実践コミュニティ。
約三か月の期間の中で、他参加メンバーや講師陣と共に、自社や社会を変えるスキルセットを学ぶことができる。
以下、インタビュー内では「CHANGE」と記載します。
高橋:そうですね、CHANGEに参加したのは2022年の7~10月です。毎週日曜日3時間の講義を受けながら、自分の事業案を磨いきました。
21年の末に参加した、自社の事業方針説明会を聞いていて、もっと子どもの障害の領域ができるんじゃないかと思ったんですよね。社長との経営対談でそのことを話して、でも、「やって欲しい」と頼むのも変だなと思い、自分でやりたいと言うようになりました。
中瀬:ふむ(社長に、、)
高橋:それで、「そういえば休職中に社内のビジネスコンテストができていたな」と思い、挑戦できる場があるならそれに応募しようと思いました。
ただ私はずっと営業ばかりしていたので、新規事業とか分からないなと思って、ワークショップに出てみたりしました。その流れでCHANGEも紹介されて、めちゃくちゃハードそうだけど、これやってみないと私は新規事業できないと思って参加しました。
それでエントリーしたら通って、本格的に自分の事業の広め方を考えたり、顧客ヒアリングを始めました。
中瀬:ふむ(すげえ)
ふむふむふむ
高橋:途中で夫がコロナになったりして、CHANGEの最後一か月はドタバタでした。施策のピボットもありましたが、最後なんとかピッチの日に間に合わせました。
参加者全員でピッチをして、5人のファイナリストの1人に選ばれました。その後3週間のうちにさらにブラッシュアップして、最後1,000人くらいの前でピッチをするんですよ。
中瀬:おお(おお!)
高橋:せっかくなら社長に見て欲しいと思って、直接メールしたんです。「よろしければ見に来てください」って。
声をかけていいものか迷っていたこともあり、二週間前くらいにメールしたんですが、社長はもともとあった予定を調整してオンラインで見てくださいました。
キリンホールディングスの新規事業室の役員にも声をかけていて、その方はリアルで見に来てくれました。
正直自信はなかったのですが、こんな機会なかなかないですし、声をかけた以上恥ずかしくないように頑張ろうと思って。結果、グランプリをもらいました。
中瀬:すごいですね。
高橋:そのあと新規事業室に異動するかという話もあったのですが、社内の新規事業応募制度がある中でそちらで正式に通過してほしいといわれ、異動の話はなくなりました。
忙しいというところだと、CHANGEの最後の方は始動とかけ持ちだったんですよ。まだまだ経験が足りないから、始動にも参加しようと思って。
始動は、経済産業省が主催する「シリコンバレーと日本の架け橋プロジェクト」。
イノベーターに必要なマインドセットやスキルセットを学ぶ国内プログラム、選抜者を対象としたシリコンバレー派遣プログラム、成果報告会で構成される。
高橋:始動の参加者は実際に事業を進めている方も多く、レベルがすごく高いんです。国内プログラムの最終日に全員でピッチをして、シリコンバレー選抜に選んでいただきました。
中瀬:破竹の勢いですね。シリコンバレーはどうでしたか。
高橋:選抜メンバーに選ばれて、シリコンバレーに行くまでのプレッシャーがすごくて、押しつぶされそうになっていました。
現地に行って自分の事業を推進させるヒントを得ようと思って、周りの人のツテも借りながら現地の方とオンライン面談をしたり、深夜にオンライン英会話をしながら準備していました。
中瀬:そうだったんですね。
高橋:「シリコンバレーにはマインドセットを学びに行くんだよ」と何度も言われました。正直行く前はよく分かっていなかったんですが、現地に行って「失敗を恐れずトライしよう」というマインドをみんなが当たり前に持つことが大事だと気づきました。
印象的だった話があって、アメリカに、アスレチックブリュワリーという会社があるんです。この会社は全米ノンアルクラフトビール市場で51%以上のシェアを占めています。
そのスタートアップは、当初投資家100人から断られてたって聞いて、すごいなと思って。100にいくまでに普通は心折れるじゃないですか。でも、自分で制限をかけるんじゃなくて、やり続ける、諦めない姿勢を学べたかなと思います。
中瀬:シリコンバレーから戻られてからはどのように過ごされていたんですか。
高橋:日本に戻ってきて社内ビジコンの3次選考がありましたが、結果は非通過でした。
会社のビジネスコンテストで落ちた際、「キリンでやるイメージが湧かない」とフィードバックを受け、市場規模の問題含め、大企業でやるのは難しいんだな、と納得しました。
ただ、会社のブランドやアセットを使った方が、より広く社会に届け得られるじゃないですか。だから会社で使えるものは使った方がいいよなとは思います。
あと、先日この事業案について改めて社長と話して、「スープとか親和性高いし、そこで展開できたらいいな」とか話したりして。他の役員にも想いを伝えたり、新規事業室の先輩に相談したりしながら、自社でできる道をまた模索し始めています。
次の社内ビジコンの締め切りが今日なんです。もう出さない予定だったんですが、またやり方を変えて出そうとさっき決めました。
中瀬:そうなんですね笑。いい報告を聞けることを楽しみにしています。
ペースト食事業への想い
中瀬:事業の推進はこれからも続けられるんですね。
高橋:そうですね、やっぱり色んなシーンで「これって必要だよね」と感じるんです。
ヒアリングしててもそうですし、同じように嚥下障害の子をもつお母さんたちの話を聞いてもそうですし。
中瀬:もう少し詳しくお聞きしたいです。
高橋:まずは自分自身が欲しいと思いますね。「食事をペーストにしないと食べられない子がいる」ということが浸透していないので、ペーストしてくれる店はほとんどないんですよね。そうすると外出がなかなか出来なくなるんです。周りの方からも、もっと気軽にお店とかピクニックに行けたりするといいな、と聞きます。
中瀬:そうなんですね…高橋さんのペースト食、もっと社会に広まって欲しいです。このペースト食、これって私が食べても美味しいんですよね。
高橋:はい、そういうものを目指しています。医療食みたいに勘違いされることも多いんですが、みんなが食べておいしいペーストにしたいと思っています。
ペーストにすると味の感じ方が変わってしまうんですよね。そこが難しいと感じています。
中瀬:カレーとかはかなりイメージつきやすいです。
高橋:そうですね。カレーはレトルトとの相性がいいんです。ただ一般的すぎる気もしていて、もっと色んなものを作っていきたいですね。
高橋さんが描くビジョン
中瀬:高橋さんは根底に、子供に障害があっても諦めないというか、夢を持って生きようよというのがあると感じていて。
ここら辺はビジネスコンテストやシリコンバレーでの経験を通して培ったんですかね。
高橋:事業に関しては、私は今まで人生で起業家に接したことがなかったんですよね。
始動とかに参加すると、起業したり挑戦したりしている人がたくさんいて、そうした頑張ってる人に囲まれるのはいいなと思います。
中瀬:高橋さんが挑戦を通して達成したいビジョンはありますか。
高橋:私のビジョンは「子どもに障害があっても、子供も親も自分の可能性を諦めない世界をつくる」です。
私が復職した話とも絡むんですけど、子供が障害になると親は仕事辞めるのが当たり前みたいな風潮があって。周囲も親もそう思うんですよね。
でもそこで親が仕事を続けることを諦めたら、子供のせいみたいじゃないですか。子供に障害があるから仕事辞めました、とは言いたくないし、思うことも嫌で。だから復職したかったんです。
実際には保育園に預かってもらう自治体交渉とかもすごい大変で、拒絶されるようなこともあります。でも、何とか切り開けば次の子が入れたりもするじゃないですか。
子どもの時間ってすぐに過ぎてしまうので、「この年」を逃したらもう保育所には預けられないんです。子ども同士で遊ぶ機会が与えられないことになります。
親としてこの子のためになることがしたいと思って、だからこそ諦めずにやりますね。今でも、小学校や教育委員会と対話しながら色々検討しています。
中瀬:そうなんですね。ペースト食だけでなく、障害を持つ子供が受け入れられる事例作りもされているということですよね。
高橋:そうですね。昔は人工呼吸器使ってると新幹線に乗れないとかあって、でも過去の先輩たちが切り開いてくれたから今は普通に乗れるんです。
今できないことが当たり前にできる社会にしたいと思います。
中瀬:僕らもそのあたり全然気づけてなかったというか…普通に生きていたら知らなかった話も高橋さんから伺うことができました。
私たちのメディアも、高橋さんのビジョンを実現するツールとして役立たせてもらいます。
高橋:ありがとうございます。やはり存在を知らないと分からないというのはあると思っていて。そういった人のことを当たり前の日常の中で、こどもを通して知って、存在を認め合いながら生活できるといいなと思います。
中瀬:高橋さんのバイタリティはすごいですね。
高橋:私、元々人前に出るのはどちらかというと苦手で笑
緊張して何を話していいかわからなくなるんです。でも、CHANGEのファイナルピッチで、1000人の前で話す機会をいただいたので、そこからは人前で話すことは苦手でも、せっかく機会をいただけるならやってみようと思うようになりました。
私のピッチを聞いた他の会社の方から「うちの会社のチームの女性の方が、『子供が生まれてから自分の中で仕事をセーブしていたけど、高橋さんのピッチを聞いてもっと外に出ようと思ったから、いろいろ教えて!連れて行って!』と言ってたんだよと教えてくださったことがあるんですよ。
社内でも「ずっと応援してました!」みたいに行ってくれる方もいて、社内で知られていたとは思っていなかったし、すごく嬉しかったです。
お子さんの話、普通ならどうしても悲壮感が出てしまったり、苦労話のように聞こえてしまうけど、高橋さんからはまったく感じられなかったなあ。
「障害がある長女も、障害のない長男も、どちらも育てるのは大変。わんぱくに遊びまわる分、長男の方が育てるのに苦労してるかも」と話す姿を見て、「障害がある子も当たり前に地域で過ごす」という考え方を誰よりも高橋さんが実践されていると感じました。
中瀬:本日は色々とお話を伺わせていただきありがとうございました。
高橋:こちらこそありがとうございました。